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2005年12月19日(月曜日)

イプシロン・デルタ(3) [ 数学 ]

この話題を書くきっかけとなったのはcalc氏の日記なのだが,いろいろ調べてみると,コーシーが一様収束の概念に到達できなかったのも仕方ないと思える。コーシーの功績というものは,つまるところ「極限の概念」を微積分の基礎に置いたことなのだ。ライプニッツのようにdxを「無限小という量」として扱うようなことでは説明できないことが多々あり,確実な基礎付けが望まれていた時期でもあった。そういうわけでコーシーは極限の概念を基礎として微分積分学を再構築した。したのだが,極限の定義はやや直感的でありイプシロン・デルタほどの徹底的に厳密化されたものではなかった。そのため,議論の細部においてときおり誤った議論をしているようだ。直感的な定義の弱点は関数列の極限で顕著に表れる。関数列f_n(x)が関数g(x)に収束するとはどういうことか?xを固定すれは数列の極限だが,xが変化するとどうなるか?このあたりを明確に表記するにはイプシロン・デルタの記法が不可欠(というのは言い過ぎかもだが)である。

xの変化が問題になるのは連続性の定義でも起こる。各点での連続性における\deltaxに依存せずに選べるときは「一様連続」というのであるが,コーシーはこの一様連続の概念にも到達していない。それも無理からぬことだと思う。コーシーは連続関数が積分可能であることの(不完全な)証明を与えているが,その証明では閉区間において連続な関数があたかも一様連続であるかのように処理されている。つまり\deltaが閉区間のどこでも通用するようにとれると錯覚している。結果的に正しいのだが,このことは決して自明ではない。正しい証明はハイネによって与えられた。(それがハイネ自身によるものか,あるいはワイエルシュトラスによるものかは不明であるが。)

ということで,単なる数列の極限と違って,関数列の極限はかくもデリケートで難しいということですねえ。関数解析を学ぶと関数空間における点列の極限になってしまい,逆にどこが難しいのか分からなくなってしまう(笑)のだが,これが進歩というものかもしれない。そう言えば高木貞治の本に書いてあったなあ。「数学に王道なしというが,実は既成数学は王道である」と。

投稿者 sukarabe : 2005年12月19日 11:08

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